トレースマップはカシミール3Dで作成
*この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用しています。(承認番号 平17総使、第654号) ※点線は推定トレース

小谷山 (495m 滋賀県) 2009.6.14  晴れ 2人

小谷城址駐車場(7:34)→出丸分岐・車道(7:43)→間柄峠(7:52)→車道終点・番所跡(8:03)→馬洗池・御馬屋(8:10)→桜馬場(8:15)→本丸(8:19)→京極丸(8:26)→山王丸(8:33)→六坊(8:39)→清水谷分岐点(8:41)→小谷山山頂・大嶽城跡(9:00-9:37)→清水谷分岐点(9:50)→お屋敷跡・林道終点(10:12)→小谷山登山口標示(10:25)→出丸(10:32)→駐車場(10:39)

 3週間ぶりに山に行く計画を立てたが、この休みは午後1時半までに自宅に戻らなければならない。午前中に勝負できる山を探した。この春、滋賀県の大谷山に出かけたとき、国道365号線で湖北町を通過する辺りに、美しい形をした低山を見かけた。国道に小谷山の表示があった。ネット情報では往復3時間ほどで登れる山であり、岐阜市からも比較的近いことから、この休みに登る山を小谷山に決めた。また、この春に名前つながりで岐阜県と滋賀県の大谷山に登ったが、この山も名前つながりといえないことはない。

 小谷山は、日本の歴史を語るうえで重要な場所である。国盗り物語に巻き込まれた浅井家の壮絶でドラマチックな悲劇がこの山で展開された。その概要は次のようである。

 小谷城の城主は、浅井亮政・浅井久政・浅井長政と三代。浅井家は越前の朝倉家と同盟を組み、さらに、尾張の織田信長と同盟を結ぶ。三代目の浅井長政は、信長の妹のお市と4人の子どもとともに湖北の地で暮していた。織田信長と足利義昭の仲が次第に不和になり、朝倉義景は足利義昭と反信長連盟を結ぶ。このため、朝倉を攻める織田信長に対し、両者と同盟を結ぶ浅井長政は悩んだあげくに朝倉側につき、浅井領を通過した織田軍の背後を突くために出陣をする。この謀反の知らせはお市によってすぐに織田軍に伝えられた。信長は知らせを受けると軍勢を立て直して浅井攻めを開始する。

 1570年、浅井長政・朝倉景健と織田信長・徳川家康が姉川を挟んで激戦を展開。その後、形勢は信長に有利となり、1573年、朝倉方が陣取る大嶽城が陥落。朝倉家を滅ぼした後、小谷山の前面に位置する虎御前山に陣取った信長は小谷城を攻撃。本丸背後の京極丸を占拠し、本丸の長政と小丸の久政を分断。小丸の久政が自刃すると、長政は信長の降伏・開城勧告を拒否し、お市と三人の娘を織田陣営に還した後、本丸下の赤尾屋敷で自刃。小谷城は落城した。

 6時過ぎに自宅を出て、伊吹山を北に見ながら国道365号線を北西に走る。右手前方に小谷山が近づき、長浜市を抜けた辺りで、田園の中に右へ小谷山の標示がある。ここを右折するとすぐに山に突き当り、桜並木に囲まれた、10台以上駐車できそうな広い駐車場に車を停めた。駐車場には大きな東屋やトイレもある。7時を過ぎたところであり、車は一台もない。大手道と呼ばれる登山口は駐車場入り口にあり、大きな案内地図などが設置されており、観光地を思わせる。さらに舗装道路が上がっており、番所跡まで車で行けるとの案内もある。今日の計画は、大手道から小谷城址を歩いて小谷山山頂を踏み、帰路は清水谷を下る。そのため、車はここに停めて歩き始める。

 登り始めは赤土の広い道で、結構急である。白い小さな杭に山頂まで2.4kmと標示してある。この標示は100mごとに設置されており、山頂までの距離を知ることができる。我々に驚いてシャクガが一斉に飛び回る。シャクガの一種が羽化する時期であり、毎年この時期に登ると出会う光景だ。左に向きを変えながら夏草を分けると車道に出た。車道を渡らず出丸に行く山道があったが、車道の向こうに山道がない。車道を右折して50mほど歩くと、左に大手道の標示があり、広い道が分岐している。児童館・清水谷の標示もあり、斜面を下る道があった。下山時にこの道を登ってくるとは、このとき思いもしなかった。
 
 天然林の中、広い道を歩いていくと数分で間柄峠祉の標示を通過。さらにこの先で、車道に接する広場があり、望笙峠と書いてある。梅雨の合間で、霞が濃く、展望は効かないが、晴れていればここから琵琶湖と竹生島が見えるようだ。道路に沿って右山で歩く。左の樹間からは、これから登る小谷山が見える。道沿いの木には所々に樹種の名前が書かれたプレートが下がっており、小谷城保存会によって設置されているようだ。

 緩やかに登っていくと大きな案内看板が現れ、車道の終点となっている。戻るように登れば金吾丸。そのまま進めば番所跡である。いよいよここから城祉に差し掛かる。本丸方向に歩き、すぐに大きな石のある御茶屋を通過。遺跡の解説を読みながら歩く。ヌタ場状態の馬洗池から御馬屋の針葉樹の林を抜けて展望地に寄り道。松枯れの目立つ尾根からは、正面に美しい小谷山が望めた。まだまだ先だ。
 
 遊歩道に戻って登っていく。足元の小さな黄色い花はコナスビであり、登山口からたくさん見られる。首据石という不気味な名前の岩が現れ、当時、ここに首をさらしたらしい。この先で右へ赤尾屋敷の標示があり、この屋敷で浅井長政が自刀したところだ。赤尾屋敷跡には寄らず、そのまま歩くと桜馬場に出る。ここには大きな石碑と浅井家の墓がある。手を合わせて石段を登りかけると、突然、獣が東の斜面に駆け下りていく音が響いた。びっくりしたが、どうやらカモシカのようだ。
 
 石段を登って巨大な広場に飛び出した。大広間の標示があり、その面積は35アール。「多くの武将たちが会堂したであろう姿が想像される」との記述があり、まさにその光景が目に浮かぶようだ。前方に見える石垣に向って緑の広場を横切ると本丸の標示がモミジの枝に隠れていた。本丸に上がってみると、木立の台地があった。初夏の風にさわぐ木々からこぼれる陽が地面を揺らす。かつて長政はここで何を考えていたのだろうか。時の流れを逆戻しして、当時の様子を思い巡らす。

 さて本丸から先に道が無い。台地の周囲を歩いてみると、西側に道が見下ろせた。本丸の高台から大広間に降りて西に回り込む。中丸を通過し刀洗池を巻くように登ると京極丸に出た。羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜からこの京極丸を急襲して陥落させ、本丸を守る長政と小丸を守る長政の父・久政を分断させた場所である。階段状の地形をさらに登って小丸を通過し、斜面を登っていくと、「至 山王丸」の標示があり、「イチヤクソウ群落地」のプレートが掛かっていた。標示板の下にたくさんのイチヤクソウが花を咲かせている。花はやや遅いがイチヤクソウの群落に出会うとは思わなかった。

 苔むした石垣が崩れたようなところを登って山王丸に着いた。この東には立派な石垣が残っていることを後で知り、見ておけばよかったと後悔。山王丸はこの尾根で最も高い場所に位置し、西側の樹木の切れ間から目の前に小谷山が望めた。足元にはネジキの白い花が散らばっている。

 山王丸から急斜面を下って、天然林の水平道を歩くと六坊を通過。散在していた6つの寺院をここに集めたとの解説がある。この先の鞍部で交差点が現れ、左は清水谷。右にも明瞭な道があった。直進して小谷山に向う丸木階段に取り付く。本日の最もきつい登りがこの丸木階段である。小谷山は別名「大嶽」と呼ばれ、山頂には大嶽城祉がある。城址まで580m。ひたすら階段を登る。ツルアリドウシの可憐な花が疲れを吹き飛ばす。汗をかきながら登り詰めて、なだらかな道を歩き、展望のいい尾根に出る。登ってきた尾根と湖北町の田園が見下ろせるが、伊吹山は霞の中。東には西池も見える。

 葉を茂らせた潅木が道を覆い、僅かのヤブこぎをする。クマイチゴやクサイチゴが真っ赤な実をつけている。再び丸木階段を登り詰めると、ススキの中に大嶽城の解説板があった。そしてすぐ先には三角点のあるピーク。ここが小谷山山頂に間違いないが、山名標示板が無い。樹木に覆われた平らな広い山頂を奥まで歩くと、やや窪んだ地に大嶽城址495mの標示柱があった。さらに奥まで歩くと、展望が得られ、西の琵琶湖方面や北の山田山や己高山の美しい山並みが望めた。

 木陰の岩に腰を下ろして、コーヒータイム。さわやかな風の中でパーコレーターがポコポコと音を立てる。緑の空間で飲むコーヒーは最高に美味しい。「夏草や 兵どもが 夢の跡」 ここから見る周囲の山々は500年前と同じであろう。時のたつのは早い。山頂からは神明宮跡や脇坂甚内屋敷跡へ下る道があったが、清水谷を下ることにして、登ってきた道を引き返した。
 
 丸木階段を一気に清水谷分岐点まで下り、谷に向う。ササの道から左に涸れた谷を見ながら天然林を下っていくと、登ってくる二名の男性に出会った。今日、初めて出会う登山者だった。いつも登ってみえる方々で、谷コースを登って帰りは城址を下るという。我々と逆コースだ。
 
 さらに丸木階段を下っていくと、土佐屋敷跡、三田村屋敷跡の石柱が現れる。この谷に沿って屋敷が点在していたようだ。落ち葉の道を下り、丸木橋で谷を越える。木の名札を見ながら、城址のある尾根を左に下る。シャクガに混じって蝶が優雅に舞っている。コミスジに似た蝶だが、やや大きい。葉に止まって羽の模様を見るとミスジチョウだった。なかなか出会えない蝶の写真を撮ることができた。
 
 カラスのざわめきを耳に、整備された崩壊地跡を通過して杉林の広場に出た。ここも屋敷跡。針葉樹と広葉樹が合体した木が見られた。4月4日にクマを目撃したという注意書きもある。ここから、未舗装の林道を歩く。湖北田園空間博物館案内図を見ながら児童館を通過。小谷山の標示が左側にあり、出丸付近を通過してスタートした登山口に出られそうだったので、車道歩きを変更して左に折れた。山に入りジグザグと登っていくと、往路で車道を渡ったところに出た。

 ここからは、登って来た道を下る。時間があったので出丸跡に寄ってみた。天然林の中に、ひっそりと石柱が立っており展望はない。ウスノキの大きな実を見つけたので、食べてみるとたいへん美味しかった。引き返すところで登ってくる人に出会った。城址に立ち寄った観光客のようだ。出丸から駐車場まで下ると車が増えていた。東屋で持ってきた冷やし蕎麦を食べた。これから登る登山者からこの山の情報を聞かれた。次々と車がやってくる。滋賀県以外のナンバーも多い。半分は観光客で半分は登山者。人気の山だ。これからスタートする登山者を見ながら、小谷山を後にした。

 小谷山は、何といっても歴史散策を楽しむ山である。金華山のように急峻な地形ではなく、また観光化されておらず山歩きを目的に登っても十分に楽しめる。観光化されていないだけに、山道であり、特に山王丸から小谷山へは草が道を覆うところもあり、本格的な山道となっている。小谷山の眩しい緑が印象に残った。ほとんどが天然林であり、紅葉の時期もすばらしいに違いない。

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